大型Book Club企画&映画公開が近づくにつれて、ワクワクを抑えきれなくなってきた。
そこで、神話についてズブの素人ながら、観る前の妄想を少しだけ書いてみたい。
(Book Clubと映画本編を観終わったら、たぶん全然違う感想になっていると思う、笑)
あらすじ&藤野さんの紹介文を読んでいて、3つのことが頭に浮かんだ。
・「勝つこと」より、「生き残ること」の方が難しかったりする。
・人を変えるのは、目的地ではなく、そこへ至る途中だったりする。
・3,000年残るだけの理由とはなにか。(リンディ効果の究極系)
オデュッセイアは、英雄が華々しく勝利する話というより、
遠回りしながら生き残り、自分が何者なのかを取り戻していく物語なのではないか、
とそんなことを勝手に妄想して書いてみる。
本質は「帰還」ではなく、「自分自身を取り戻す」旅
オデュッセイアの中心的なテーマは、「帰還」を意味する古代ギリシャ語の Nostos(ノストス) だと言われている。(先ほどはじめて知りました、笑)
もちろん、ただ単に故郷へ帰る過程を面白く描いた物語ではないはずだ。
むしろ、
「自分自身を取り戻す旅」
なのではないだろうか。
戦争を経験し、さまざまな誘惑や苦難に遭い、ときには目的を見失いながら、遠回りを繰り返す。
それでも最後には、
「自分は何者なのか」
という問いに向き合い、失いかけた自分を取り戻そうとする。
年齢を重ねるほど、このテーマは深く刺さる気がする。
若い頃は、「どこへ行くか」が大事だった。
どこまで進めるか。
何を成し遂げるか。
どんな自分になれるか。
けれど人生の後半に差しかかると、
「どこへ帰るのか」(または帰らないのか、どこに行き続けるのか)
の方が、難しい問いになるような気がする。
(これは折り返しに差し掛かり始めた、30代後半の若輩者による妄想その1です(笑)。)
ちなみに、英語の nostalgia の語源には、この nostos が含まれいるそうです。(これも先ほど調べて知りました、笑)
nostos = 帰郷、帰還
algos = 痛み、苦しみ
「帰りたいのに帰れない痛み」
「失われた場所への郷愁」
が nostalgia のもともとの意味といったところでしょうか。
(単なる「懐かしさ」よりも、ずっと切実な響きですよね。)
帰る場所があるから、人は旅を続けられる。
しかし、長い旅の末に帰ってきた自分は、出発した時と同じ自分ではない。
そう考えると、帰還とは場所の問題ではなく、アイデンティティの問題とも言い換えれるのかもしれない。
遠回りの価値
「帰還」から派生するテーマとして、個人的に最も面白いと感じるのは、”遠回り”だ。
まだ観ていないけれど(笑)。
もしオデュッセウスが最短ルートで帰宅していたら、物語は成立しない。
けれど、これは人生も同じではないだろうか。
後から振り返って、本当に意味があったと思える経験は、たいてい遠回りだったりする。
失敗。
回り道。
寄り道。
無駄だと思っていた時間。
その最中にいる時は、早く正解へたどり着きたいと思うこともある。
なぜ自分はこの場所を歩いているのか。
もっと違う道があったのではないか。
この回り道に本当に意味はあるのか。
しかし振り返ると、
人を変えるのは、目的地ではなく、その途中だったりする。
もしかすると、人生において本当に重要なのは、
「どこへ着いたか」ではなく、
「どんな人間になって帰ってきたか」
なのかもしれない。
帰還そのものに価値があるのではない。
帰還するまでの過程で、人が変わることに価値がある。
最短距離では人生も映画も物語にならない。
だから遠回りの中にこそ、後から意味を持つものがあるのかもしれない。
強さの本質は「勝つこと」ではなく「生き残ること」
オデュッセウスは、アキレスのような最強の英雄ではない。
しかし、
状況を読む。
人を見る。
嘘を見抜く。
交渉する。
我慢する。
タイミングを待つ。
そして遠回りを受け入れながら、何とか生き残る。
勝者というより、
長期生存者。
力勝負にでれば一度勝つことはできるかもしれない。
運が良ければ、大きく勝つこともある。
しかし、環境が変わり、前提が崩れ、何度も判断を積み重ねながら、それでも生き残り続けることは容易ではない。
(次の戦いで命運決まるぜ、さあ一世一代の決戦、勝負じゃ!というある種モメンタム性に力点を置いたストーリーはきっと派手だしわかりやすいけど、"長く負けずに生き残り続ける"方が地味だけどしなやかだし、そうゆう再現性のある負けない戦い方はじっくり本質的価値をみつめる長期投資に通ずる部分もあるのでは。)
オデュッセイアが3,000年近く読み継がれてきたのは、オデュッセウスが力任せに敵をなぎ倒す「力の英雄」だからではなく、どこまでも人間的だからなのかもしれない。
一見遠回りをしながらも、待つことを恐れない姿勢、そうゆう"長期生存"のしなやかさの奥にこそ本質的な強さのヒントがあるのかもしれない。
リンディ効果の究極形?
リンディ効果という考え方がある。
長く生き残ってきたもの、考え方、本などは、これからも長く生き残る可能性が高いという考え方だ。
もしそうなら、3,000年近く読み継がれてきたオデュッセイアは、究極のリンディ効果を持つ物語と言える。
3,000年前と現代では、環境も技術も価値観も大きく違う。
国家は興り、滅びた。
テクノロジーは進歩した。
人間の暮らし方も大きく変わった。
それでも、この物語は残った。
ということは、そこには時代に依存しない何かがある。
おそらく、それは知識ではない。
ノウハウでもない。
それは例えば
「人間への理解と、人間に対する問い」
きっと優れた物語は、時代ごとの答えを教えてくれるから残るのではない。
時代が変わっても消えない問いを抱えているから残るのではないか。
家族を守りたい
誘惑に負けそうになる
本来ならすぐ帰れたはずなのに、遠回りする。(またはしなきゃいけなくなった)
自分は何者か悩む(?)
という、とても人間くさい側面。
3,000年前の人も、
現代を生きる私たちも、
「人間は何を求めるのか」
という問いは、実は意外なほど変わらない気がする。
もしかしたら人は、
答えよりも問いを必要としている生き物
なのかもしれない。
そう考えると、オデュッセイアは3,000年間、
人類に同じ答えを与えてきたのではなく、
同じ問いを投げ続けてきた。
だから古びないのかもしれない。
妄想後記
Book Club&映画本編を観終わったら、たぶんこの妄想はまたmodifyされると思う。
(なんも知らずに恥ずかしいこと書いてた~となる気もする、笑)
けれど今のところ、オデュッセイアは単なる冒険譚ではなく、
"人はなぜ遠回りをするのかを考える物語"
なのではないかと思っている。
そして3,000年間読み継がれてきたのは、
問い続けながら生きることの本質が描かれているからかもしれない。
人は目的地に到達したから成長するのではない。
最短距離では、人生も本も語り継ぐに値する物語にはならない。
きっと遠回りしたからこそ、出発した時とは違う自分になれる。
大型Book Club企画と映画本編、どんな世界に浸れるのだろう、今からめちゃくちゃ楽しみだ😌





