髙取宗茂さんが書かれた新刊本「そろそろ愛について語ろう 」。
この本は、不思議な本です。
正直な話、オススメできる相手が限られてきます。
「愛」は普遍的なテーマ。だから、すべての人が当事者でもある。
しかしながら、オススメできる相手は限られてくる。そんな不思議な本。
「では、なぜ?」というところからお話しさせてください。
■読むのをやめようとした本
まず、Amazonを見ると、以下のように紹介されています。
「そろそろ愛について語ろう」【amazonの商品紹介より】
「愛」とは何かー―
この問いは宗教・哲学・文学を通じて繰り返し追い続けてきたテーマでありながら、いまだ人類は決定的な答えを持ち得ていません。むしろ今、私たちは孤立・分断・戦争・少子化・AIの台頭といったさまざまな難題のただ中にあって、「愛とは何か」を見失いかけています。
本書は、愛を「説明できないもの」として終わらせるのではなく、また「美しい言葉」として飾るのでもありません。迷路のような現代社会を生きる私たちの道しるべとして、「愛とは何か?」を再定義しようとする希有な試みです。
正直に言うと、この本は、私が普段なら手に取らないタイプの本でした。そして実際、途中で読むのをやめても、まったく不思議ではありませんでした。
読み始めて50ページほどで、かなり消耗している自分に気づきました。とにかく前に進まない。
この本に書かれているのは、整理された知識や情報ではありません。迷い、矛盾、その時々の価値観や覚悟が、強い熱量のまま叩きつけられてくる・・・。
多くの読者は圧倒されるでしょう。「もう、この先が読み進められない」と言う人もいるはずです。
「情報や知識がまとめられた本」として受け取る読書ではなく、感情ごと受け止めることを要求される。それが本書が求める読書スタイル。正直に言って、かなり重たい本でした。
■アタマで理解しようとする、わからなくなる本
それでも頑張って読み進めました。
読む場所を変えてみたり、読む時間帯を変えてみたりしながら。それでも「前に進まない!」。不思議な違和感が、ずっとつきまといました。
・主張が曖昧に感じられる。
・構造が見えない。
・どこが結論なのかも分からない。
それでも言葉は続いていく・・・。
読者であるこちら側が、意味を「受け取る」だけでなく、補完し、推し量り、それこそ「耐える」ことを強いられる。そんな本です。
「アタマで理解する読書」だと挫折します。実際のところ「理解するための読書」ではありませんでした。むしろ、「耐える読書」に近い。
最初の頃、「この著者は、いったい何が言いたいのだろう?」と、先に進みつつも前に戻ったりして、「理解」や「解読」をしようとしました。しかし、それをやればやるほど、かえって分からなくなる(笑)
一方で、次第にこんな現象が起きました。
「アタマで分かろう」とするのをやめて、感情のまま、ココロで受け取ろうとすると、不思議と、よく分からないまま話が流れていくのです。
そこで気づき始めました。
この本は、
・アタマで読む本ではない。
・スピードと効率の読書向きではない
・気分が軽い時に読む本でもない
・「読む本」というより、「付き合う本」なのかもしれない
そう。本書は「アタマで理解しようとするとわからなくなる」という本なのです。本書に関する限り、「情報や知識を得よう」という一般的読書に求められる前提そのものが、間違っているのです。
■「愛について論じられた本はない」という点での違和感
ただ、「情報や知識」に関する部分がまったくないわけではありません。
そんな中で、私が強く引っかかった点があります。「これは、間違っている情報だよね」という部分があって。
著者は言います。
「歴史を振り返ってみると、愛について真剣に論じられた本は今までに存在しない」と。
「あるとしても、文学作品や彫刻などの芸術作品。あるいは宗教の教えだけだ」「宗教から離れて論じられたものとしては、ニーチェぐらいしか見当たらない」と。
しかし正直に言えば、これは事実としては違う。
たとえば、哲学史を振り返れば、愛について考えてきた思想家や書物がいくらでもあることがわかります。
「世界を理解したい」という認識論からくる欲望は愛であり、「他者とどう生きるべきか」もテーマは愛であり、「生を肯定すべきか」「共に生きるには?」という、存在論や政治哲学なども、その根源は「愛」のはず。
それを「ない」と言い切るのは、どうしてだろう?という疑問がありました。
あるのに「ない」と。
このままでは、この先のページを読み進めることができないじゃないか、と。
しかし、読み進め、考え続けるうちに、この言葉の意味が少し変わって見えてきました。
これは「事実の主張」ではなく、読者を「既存の愛論」から引き剥がすための宣言だったのではないか、と。
ちょうど、ニーチェの「神は死んだ」が、「神の不在」を報告した言葉ではなく、「古い価値観に盲目的に依拠するあまり、思考停止になっている状況から脱せよ」という宣言だったように。
著者が言う「愛について論じた本はない」という言葉もまた、「もう誰かの愛の定義に寄りかかるな」「お仕着せの借り物の愛を盲従するな」「自分自身で、愛について真剣に考え始めろ」というメッセージだったのではないか、と。
いみじくも本書を読むと、宗教を離れた哲学者としてニーチェくらいだよね、というくだりがあり、「なるほど。まさにそこを意図しての宣言だったのかもな・・・」とも思いました。
逆に言うと、著者は本書をまとめるにあたり、それら書籍の影響を受けておらず(あるいは、寄りかかることなく、いったん全てを脇において)、だからこそ「愛について考え抜いた本なんて存在しない!」と宣言されたのかもしれないと。
(うがちすぎかもしれませんが)
まさに「自分自身で考え抜いた結果としての本書」と言えそうです。
■それでも読み進めた理由(ちょっと余談)
頑張って読み進めました。
でも、200ページを過ぎても、正直、「面白い」という感覚はありませんでした。
Amazonのレビューを見ると、不思議なほどの絶賛が並んでいて、少し宗教的にも感じられるようなコメントも・・・。
誤解を恐れずに言えば、「刺さる人には強烈に刺さるが、刺さらない人には、よく分からない」という本。距離を取りたくなる人がいても、まったく不思議ではない本です。
それでも私は、読み続けました。
なぜなら、著者の経歴を調べたことがきっかけでした。
そして。
ちょっと変かもしれませんが、
「あ。いつかこの著者と会って、一緒にご飯を食べることになるはず!」
と思ってしまったのです。はい。アタマ、おかしいですね(笑)
でも、なぜか根拠のない直感に襲われました。
だから、読み進めることにしたのです。
「会ってご飯を食べることになるはずだから、事前に読んでおかなきゃ!」と。
内容を理解できるかどうかよりも、ちゃんと向き合ってみようと思いました。
■本書「そろそろ愛について語ろう」の正体
読み進めるうちに、「あぁ、なるほど!」と、この本の「正体」が、少しずつ見えてきました。
本書のタイトルは「そろそろ愛について語ろう」というもの。
しかし、この本は、愛について何かを教えてくれる本ではありませんでした。
むしろ、読者が頼ろうとする旧来の考え方や理論、いわゆる「正解」を、次々と使えなくしていく本です。
たとえるなら、「目次と見出ししかない参考書」、あるいは「模範解答のない記述問題集」とでも言えるでしょう。
問いは提示されます。
考えるべき方向も、なんとなく示されています。
しかし、知識や情報がまとめられているどころか、「こう考えればいいですよ」という答えは、どこにもないのです。要は「自分で考えろ」と。
だから読者は、分からなさや不安やイライラを抱えたまま、先へ進むことになります。読み手を疲れさせる理由は、まさにそこにあるなと。
この本が読者に要求しているのは、「理解や納得」ではなく、「自分の言葉で考え続ける姿勢」なのだと思いました。
そして「本当に愛について考えたこと、あるのか?」「無いだろう?」と、読者を挑発する。
実際にそう書いてあるわけではないものの、「要は、そういうことだよね?」とわかる本でした。
■自分の実践との接続 ―「答えを与えない」ということ
そして気付いたことが、もう一つありました。
この手法は、まさに自分がやっていたことでもあるなと。
日本の大学生を対象とするビジネス研修に「武者修行プログラム 」というものがあります。
ベトナムのホイアンで、2週間の泊まり込みで新規事業を立ち上げ、実際にビジネス展開を実践するというプログラム。(現在は日本でも開催)
私はこの「武者修行プログラム」で、ビジネスファシリテーターをつとめてきました。
今まで、合計20回ほど担当し、累計で500名の大学生と対峙しました。
(そのうち100名とは、1時間の個人面談も担当しました)
若干、はしょるのですが・・・、
その中で、一貫してこだわってきたのは、参加者に対して「答えを与えない」ということ」でした。
とにかく自分たちで考えさせる。
そのために必要な「問い」は、いくらでも提供し続ける・・・。
参加者は、当然イライラします。
「で、結局どうすればいいんですか?」
「何をすればいいんですか?」
そう言われることも、何度もありました。
でも、参加している「個人」に対し、また「チーム」に対しても、私は「どう思う?」「みんなで考えた結果はどうだったの?」と、問い続けます。
中には、
「正解を教えてくださいよ!」
と言われたこともあります。(そりゃ、そうですよね)
それでも私は、あえて結論を提示せず、「問い」だけを残すようにしてきました。なぜなら、誰かの答えを借りて進んでも、それはその人自身の人生にはならないからです。
そもそも、正解が無い世界。そこで、ファシリテーターが「答え」を持ち合わせているとは限りません。
この本を読みながら感じていた「答えを与えてくれない感じ」「読者をイラつかせる設計」・・・。それは、私自身がこれまで「武者修行プログラム」の現場でやってきたことと、驚くほどよく似ていました。
この本もまた、読者に知識や結論を与えるのではなく、「自分で引き受ける責任」へと連れていこうとしている!
しかも著者の経歴を調べたら、飲食業を経営されるかたわらで、「山」という研修プログラムを承継し、「咸宜塾 」という研修組織を運営されているじゃないか!
そう考えたとき、本書を読み進める途中で感じられた「違和感」や「疲労感」も、単なる「読みづらさ」に起因するものではなく、「巧妙に設計された仕掛け」だったのかもしれないと、自分なりに腑に落ちたのです。
■おわりに
ありきたりな言葉ですが、この本が伝えているのは「アタマではなく、ココロで生きろ」ということ。さらに言えば「自分で考え、自分で動き、真剣に自分自身を生きよ!」ということだと感じました。
イメージとしては、
• ココロこそがエンジン
• アタマはハンドルとブレーキに過ぎない
ところが多くの人は、ハンドルとブレーキばかり操作して、エンジンをかけていないのではないか。
人生が動かない。
誰かに牽引してもらわないと進めない。
つまり、自分の人生を生きていない。だから自分の人生を生きることもできない。
「そのままで良いのか!」を突きつける本。
でも「結論を出せ!」とは言わない本。
自分が日常を生きていく中で「常にテーマとしてもっておきなさい」と言ってくる本。
「自分が今、どんな状態で生きているのかを確かめるための本」とも言えそうです。
「愛」は普遍的なテーマ。だから、すべての人が当事者でもある。
しかしながら、オススメできる相手は限られてくる。そんな不思議な本でした。
ピンと来るところがあれば、ぜひ読書チャレンジをしていただきたいです。
こちらのYouTube対談も、ご参考までに。
■あなたは「愛」を語れますか?(武田勝彦チャンネル: 1:16)

